TEAM P 本郷良典の歴史考察
2020-06-26
本能寺の変について・・・・・・1
1582年6月21日 (朔月)
当時日本の国土ほぼ半分の領土を手中に収め天下統一まであと一歩まで近づいた織田信長が
わずかな手勢とともに宿泊した本能寺において重臣の明智光秀に包囲殲滅され歴史の流れが大きく変わった、
本当に「変」のできごとですが、沢山の人が本能寺の変について真犯人について推測しています。
秀吉説・朝廷説・家康説いろいろありますが、今回は実際に起きた時系列だけを事実に基づき列挙し、
どのように豊臣秀吉が天下を取ったかを記術していきたいと思います。
その前に、当時の時代背景を理解していただく為、当時の信長の軍団配置図をここに掲示します。
信長は当時としては珍しい軍団制を敷いており
各方面軍団は約1万程度の兵員を擁して担当方面の領土拡大に奔走している状況でした。
その中で羽柴秀吉は本来の軍勢のほかに織田方に下った宇喜多家約1万の軍勢が合流した為、
総兵力2万越えの最大兵力を擁しておりました。
また盟友としての徳川家康は駿河の領土を併合したこともあり。これも約2万の兵力を擁しておりました。
逆に神戸信孝(信長の3男)や滝川一益の軍団はできて間もない混成軍であり、
他の軍団と比較しても結束は低い軍団であるといえます。
この中で特筆すべきは地図の中央を占める織田信忠(信長長男)の軍勢です。
それではこの当時の織田信忠の立場を説明します。
当時信忠の年齢は20代半ば、一般的な2代目のボンボンではなく、松永久秀を攻め落としたのも、
武田家の息の根を止めたのもほかならない信忠の軍勢です。
つまりこの時信長軍の指揮はほとんどを信忠が行っており、バリバリの前線指揮官でした。
また信長からすでに家督を譲られており。事実上織田家の当主。
また信忠の軍勢も尾張・美濃を完全に支配し、また間接的に信濃・甲斐を支配することで動員兵力は3万5千越えと、もはや織田軍の主力を完全に掌握した状態です。
また居城は張りぼての安土城とは比較にならない天下の名城岐阜城(旧稲葉山城)。
さらに信長は自身の苦い経験から、信忠を他の兄弟よりも格段に優遇し、
2男(信雄)3男(信孝)が地方の小大名に養子に出されそれぞれ5千名ほどの兵しか動員できないことを考えると、
まさに当時は私たちが思っている以上に信忠の時代だったといえます。
大事なことは、このことを私たちが今知ったことではなく、当時の人々がそう思っていたということです。
このような時代背景をもとに次のブログでは実際に本能寺の変の時何があったかを書いてみたいと思います
このような時代背景をもとに次のブログでは実際に本能寺の変の時何があったかを書いてみたいと思います